今日は勉強の日にしようと思い、朝から スープ作って食べて、それから
洗濯(手洗いできるものを)して、お風呂と、トイレの掃除をした。
改めて お母さんって、すごいな、、と思う。これプラスご飯の献立までかんがえなくちゃいけないんだもんなあ、、 スープだけでも大変なのに。
それが終わって、勉強した。
覚えなくちゃ行けないことが山ほどあって 大変だけど、嫌いな事じゃないからストレスにはならない。
ただ、日本からもってきた文法の本では たとえば、 「現在形」だとか 「過去完了」だとかってかいてあるんだけど、もちろんこっちでは そんな言葉じゃなくって それさえもドイツ語で習うから やっかい。
え なにが なんのこと!って思ってしまう。 基礎の、基礎 のことだとおもうけど。
は、 が、 の、 に、 を、 とかそういうの日本の本だと、一格
二格 三格 四格 とどこみても書いてあるんだけど ぜんぜんちがって、
Nominativ、 Genitiv、 とかそういうとこもちがうから それから調べ直すのが結構ストレスにはなります。ほんと 基礎のことだとおもうんですけどね、でもそういうもんだとおもいます。でも文法は日本語で説明してあるものを読む方が やっぱり理解が早いです。
そんな勉強をしてたら、ハイデがやってきて、 午後からあなたなにか予定ある?てきかれたから この勉強だけダス、と答えた。
そしたらもしよかったらどっかいかない?って誘ってくれたから 行く行く!と賛成した。(息抜きは必要ですよね)
ハイデが準備終わるまで庭をうろうろしてた。 今日は良い天気。 肌寒いけれど。
車の中で、どこいくのってきいたら Wansee(ヴァンゼー) にいこうと。
ここからまあまあ近くにあるかなり大きな湖。
いつも行く湖よりもっともっと大きい。
電車の乗り換えで駅だけは行ったことがあるけど その湖はまだみてない。
wansee周辺は人がたくさん。 みんな水辺がすきなんだなあ。
湖の近くに、Max Liebermann という有名な画家が住んでいた家があって その庭が美しいということで みにいった。
この家にも彼の作品がかざってあって(もちろん本物じゃないけど)、ハイデはすきなんだって。たしかにすごく美しい絵。ここら辺の静かで美しい部分をぱりっとはがして 絵にしたかんじ。 庭だけみて、美術館にはいかなかったけど、庭もそうとうきれいだった。小さいけれど、たくさんの花や 野菜、それからリンゴの木もあった。
それから湖に行った。なんと大きい。
湖の周りを少し歩いた。
たくさんのヨット。
なにか映画の撮影をしてた。
それで使うのかな、海賊船みたいなのもあった。
けっこう大がかりな撮影隊がいた。
湖の周りを歩きながら植物の名前をおしえてもらったり、動物の名前をおしえてもらったりした。
ベルリンには熊やオオカミはいないけど、鹿といのししがいるって。野生の豚って いのししのことだよね?茶色いっていってたし。 ちがうのかしら。
ハイデは大学おわってからこの湖畔にあるレストランでアルバイトしてたみたい。
それからそのお店とは違う店だけどなにか飲もうっていって 入った。
入ったっていうか外だけど。
飲み物をのみながらまたいろいろ話をした。
今の家のことや、ハイデの昔話(?)とても興味深い話。
彼女はヒッピー(?)っぽいかんじだったみたいで、 9年間、アジアを転々としていたらしい。スリランカや、インド、インドネシア、バリ、マレーシア、香港、それから日本。
ドイツに帰ってきたのが38歳のときだったっていってた。全然ドイツにかえりたくなかったんだって。
あれ まてよ そしたら 旅に出始めたのって 今の私と同じ 29歳じゃないの?っていったら にやっとわらってうなずいていた。
でもかえってきてから なんだかんだ大変だったみたい。 38歳が新たなスタートだったていってた。そりゃそうだろう、当時、(ハイデは今、57歳くらい、確か。)そんなことしてる人今ほどたくさんいなかっただろうから、それなりに風当たりもつよかったみたい。でもこのアジアでの経験はすごく自分の人生で重要だった と。
わたしも今のこの時間がとても重要になると思うっていったら そうだそうだといっていた。わたしも今から9年間ヨーロッパを放浪するのもおもしろいな。
ついでに私の前世の話もしてみたら わお、きっとそうだってうなずいてた。
なんだかすごくおもしろい人の家に住めてるんだ私。 たのしいな。
見た目は上品でかわいらしいマダムですけど、そんなやんちゃな時代を秘めていたとは。
それから少しまた歩いて、今度は wansee conference のあった場所っていうか
知ってるように私書いてるけど ぜんぜん詳しくしらなかった。
ナチスの幹部が虐殺とかそういうのを決める場所。
なんと恐ろしい。 中にはショッキングな写真などもあったけれど、こういうのも視なくてはいけないなと思ってちゃんとみた。
でも、前に収容所を訪れたときのような感覚はなくて(そのときはなぜだか着いた瞬間、いきなり涙がとまらなかった)
ただの資料館 としてみることができた。
すごくりっぱな豪邸だった。 なんだかファクトリーのボスがもともともっていて、それをそのナチスの手に渡っていまは、公共の建物になってるんだといっていた。
その豪邸の裏手にあるちいさな庭というか湖に面したところがお気に入りスポットらしい。なぜならそこは人があまりこないから。
なかなか重い資料館の裏手の湖に面したところなんかあまり人はこないだろう。
資料館というか実際そこで会議がおこなわれていたんだもんなあ。。。
でもたしかにそこはすごく美しかった。
そこにしばらくすわって また話をしたり、ぼーっとしたりした。
冬は一面凍ってまたきれいな眺めらしい。
時々来たいけどちょっとひとりは怖いなやっぱり。(私はなぜだか昔からナチスの事が異常に怖い。最近は少しましになってきたけど)
それからまた少し散歩して帰った。
今の家の事とかも聞いた。
ご両親がなくなって、この家はハイデひとりには大きすぎるし、いろいろお金もかかるし 一度は手放して、別のとこにいこうかともしたらしい。
だけど、近くにある湖や環境がやっぱり大好きだからここで暮らすことにしたみたい。
ハイデがそうしてくれたおかげでわたしは今ここでこうして 暮らせている。
なんてありがたいことなんだろうか。
私はこの家でくらせてすごくうれしい、っていったら 私もうれしいといってくれた。
歳は母とおなじくらいだけれど、感覚はお母さんというより 友達という感じがする人だ。
湖の水面を風が吹き抜けて 風は青空の 青い色も一緒に運んでいるようで
わたしはそれをたくさんすいこんだ。 なつかしいような、 夕方の夏のにおい。
湖の森を歩いているときに屋久島をおもいだした。
屋久島でくらして 今度はベルリンか。
わたしは 自分の人生はけっこうすばらしいようなきがしてきた。
帰ってから一人で すこしだけ街にいって、その帰りのバスの中からみた 夕焼け空や、
バスをおりてから森の中を歩いていて、木々のすきまに差し込む夕陽をみて
ひとりでご飯作ったり、掃除したり、近くに家族や友達がいないのは さみしいけど、でも
わたしはいつか、ここでずっと暮らしていけたらいいなあ、と思った。
(冬はめっっちゃくちゃさむいらしいから そのときには一瞬で 日本帰る!帰る!っていいだすかもしれないな)
そして、 いっこうに やせる気配がない。
追記
わたしの前世はドイツ人の男の人で、エリートでボンボンだったそうで、
仕事は何か設計かなにかをしていたらしいです。(1900年代の最初らへんに若くで亡くなっている:戦争で亡くなったのではないらしいです)
そして ハイデのお父さんは 建設の仕事をしていたらしいです。
そしてここはベルリンのリッチなエリアです。
年齢的にはぜんぜんちがうけれど、 なにかつながりがあるような気がしてきて
ちょっとたのしい。
そんなことを すこし思った。
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